大人になっても自分軸が定まらず、
モヤモヤしていた頃、
私は、
自分の子ども時代の記憶を遡ってみました。
私と同じように、
自分軸がハッキリと見えず、
世の中の声に流される度に
モヤモヤしている人も、
居るかもしれません。
なので、自分軸を取り戻す作業工程として、
1つの参考例になればと思って
この記事を書いてみます。
私は、自分軸をしっかりと持つためには
何か『やり方』があるのだと思っていて、
それさえ見つかれば
未来が変わると期待し続けていました。
ところが、実際は
『自分軸はちゃんと自分の中に残っていて、思い出すだけ』の方だった!
っというお話です。
それでは!一緒に確認してみましょう!
‖子ども時代にねじれた『自分軸』
大人になってからいつも考えていたのは、
『ありのままの自分を承認してもらいたい』
という事でした。
物心が付く前の
生まれたままの頃の自分は
『母フィルター関係無し』
『完全なる自分ベース』
を生きていました。
- 泣きたい時に泣く。
- 嬉しい時に笑う。
- 怖い時は遠慮なく怖がる。
- 食べたい時に食べたい量を食べる。
- 好奇心が溢れるものには没頭し、気になることは毎日でも挑戦する。
しかし、子どものそれが大人世界のルールと、いつも一致するとは限りません。
なので、大人と子どもは、すれ違ってしまいがちなのだと思います…
大人は、
子どもが大人ルールと違うことをすると、
『それは大人になっていくためには必要ないこと』
と、大人ルールを子どもに伝授します。
大人ルールを子どもに身につけてもらいたい親の思惑や、
子どもをコントロールしたい気持ちが強くなると、
感情として『怒る』というアクションがくっ付きます。
ところが子どもは、大人ルールと子どもルールの『境界線』を認識できません。
子どもが即座に察知できるのは、
『感情』の方です。
なので、親が怒ったという『感情』を素早く察知し、
「自分が〇〇をすると親は嬉しくないんだな」
と判断し、大人ルールの方ではなく『親の感情』を読み取ります。
子どもにとって「親の幸せ」は地球を渡り歩く上での重要項目です。
自分が何をすれば親は喜び、笑顔になるのか?と考えています。
そもそも、子どもは本来「他者との境界線」を持っていません。
世の中すべてがひとつだと思って生まれてきています。
そして、
全ては楽しいこと、
興味があること、
好奇心
で成り立っています。
なので、親も自分も
幸せに笑っていることが地球上での大前提
と考えています。
子どもルールでは笑顔が大前提なのに
親が怒りを表しているとなると、
子どもにとっては大問題!!!
- なぜ悲しんでいるんだろう?
- なぜ怒っているんだろう?
- 私が親を笑顔にするためにできることは何かないかな?
怒られることが続くと、そうやって、親の笑顔ばかりを切望するようになります。
この時点では、自分なりの方法を試してみます。
- わざとビックリさせてみたり、
- たくさん歌を歌ってみたり、
- お手伝いをしようと思って逆に散らかしてしまったり、
- 必要以上に話しかけてみたり。
色々と試してはみるものの、
どれも子どもルールで考えたことなので、
大人ルールには響いてくれません。
それどころか逆に、
やる前よりも親の怒りを招いてしまうこともあります。
そして、怒られることがだんだんと習慣になり、
時間の経過と比例して
『親は何をしたら喜ぶのか?』
『何をしなければ親は怒らないでいるか?』
と、親が怒らないためには何をすれば良いのか?
を考えることが生きる習慣になっていきす。
ここ、ポイントです。
子どもルールの中を生きていた時は
親を笑顔にするために私にできることはあるかな?
と、「笑顔にするお手伝い」を考えていました。
しかし、怒る親を見続けると
自分の行動のどれが親の「怒りスイッチ」だったか?
という風に、親が怒る原因を自分の中に探すようになるのです。
自分のせいで不幸を作っていると感じるようになっていくということです。
この流れは、私に当てはまるだけだと、ずっと思っていました。
ところが世の中を見回してみると、たくさんの人が自分の大切な「子どもルール」をいつの間にか削り取られて、大人になってからも苦しんでいる。
ということに気がつきました。
みんなおんなじだ。。
自分が原因という習慣を続けると…
「地球は『母というフィルター』を通した承認が必要なんだ」
という大人ルールの上書きが始まります…
私の場合、ここまでの過程が、概ね小学校4年生くらいまでに完成してしまっていました。
しかし、まだ小学4年生です。
それこそが『大人ルール』の始まりだとは当時の私は知る由もなく…
大人ルールを生きる大人たちの世界に染まっていくにつれて、
幼い頃は全員が持っている『子どもルール』は少しずつ、
しかし確実に、
捻れていくのではないか?
と私は感じています。
‖自分軸がねじれるとモヤモヤが生まれる
子どもの頃の自分の世界は、
大人ルールによって上書きされたとしても
『自分軸』としてココロの奥底には残ります。
人は、大人になってからも
『ありのままの自分を承認したい』という願望を
心の奥にずっと抱いているんです。
だから、『モヤモヤする』のではないでしょうか?
このモヤモヤがあると、
まるで人生のすべてにモヤがかかったかのような世界になります。
- 自分は本当は何がしたいんだろう?
- 自分は本当は何が得意なんだろう?
- 自分は本当はどんな過ごし方が好き?
何だったっけ?
子どもの頃は何に気持ちが高揚してたんだっけ?
ココロの奥にあるのに思い出せない…
モヤモヤモヤ。
親から怒られないようにすることを目的に生きると、自分軸が捻れる。
自分軸が捻れた状態では、上記のように、いつでもどこでも、常に何かにモヤモヤしてしまいます。
‖ゲームとして人生を例えてみる
例えば、地球上での自分の身体を『入れ物』と呼ぶとしましょう。『乗り物』でもいいです。
赤ちゃんとして生を受ける時、同時に地球用の『入れ物(乗り物)』というアイテムをもらうイメージです。
そして、地球上では、『私』というキャラクターで『私用の入れ物(乗り物)』というアイテムを使って『人生』というゲームで遊ぶことができます。
地球上では『私の入れ物(乗り物)』と
『他者の入れ物(乗り物)』との区別ができる状態になります。
区別ができることで
自分は、主観
他者は、客観
というキャラクターに就いています。
地球ってそういうところなわけです。
主観と客観は、必ず2つで1セットです。
自分ひとりではゲームはできませんので、
他の登場人物が必ず必要です。
それらを踏まえると、
『地球上で人間は1人では生きていけない』
という言葉も納得できます。
人生をゲームに例えてみましたが、
宇宙からすると、
たくさんの客観的存在(自分以外のたくさんの人)の中で、
主観的な存在として『自分』を体験するのが、
地球上でのエンターテインメントで、
私たちはこの地球に遊びに来ているんだそうです。
ここで話を本題に戻すと、
地球上のゲームを一番最初に体験するのが、『親』と言う客観的存在との関係となります。
これが地球での第一ステージ『社会①』です。
親との関係で、
客観側の存在『他者』と
主観的存在『自分』との2種類があることに、
そもそも気がつきます。
ただし、子どもは最初は
『自分ベース(主観)』のみで出来ているので、
客観側である『他者』からすると、
『子どもって思い通りに動いてくれない存在』
となるのです!!
ところが面白いことに、
地球上の入れ物はとても上手くできていて、
赤ん坊の頃はこの世界に何も適応しておらず、
1人では何もできないバージョンになっています!
(ゲームでも最初は武器とか
持っていなくて無防備ですよね!)
本人が強制的に、
『親』を通して客観側(社会)を学び、
主観と客観の2種類を理解していくように
ゲームがプログラミングされているイメージです。
‖地球ゲームの最短攻略法
客観側の『親』が、
地球ゲームの本質を理解できていれば
子どもが人生を攻略するペースは
早くなるでしょう。
要するに、
子どもがその子らしさをどんどん伸ばしながら、
社会にも適応していき、
親側も苦戦せず、
家庭内のあらゆる場面が
スムーズな状態になります。
しかし、
親が地球ゲームの本質を知らないまま
これが良いはずと信じている
自分の教わってきた『客観』を、
そのまま自分の子どもにも伝授しようとすると、
その子どもはもちろん、
親が見せてくれるそれが
「地球の客観性の全てなんだ!」と
勘違いを学ぶことになります…
家庭環境が連鎖する
と言われている所以は、ココ!
ではないか?と
私は睨んでおります。
地球遊びの最短攻略法は、
『本質』を理解することです。
本質とは、『在り方』なんですよね。
大人ルールに惑わされず
本音では自分はどうしたいのか?
この考え方を
子どもも大人もずっと持ち続ける。
‖幼少期に思考回路が変わった体験談
ここで、私の自分軸が
捻れるきっかけを1つ紹介しておきましょう!
私は5歳の頃まで、
誰かの行動に対して
『悔しい』とか『羨ましい』と思った事が
一度もありませんでした。
自分で自分を承認できていたから、
「相手は相手なんだね〜」ってだけで、
相手のことも自分のことも
同じように承認できていたのです。
5歳の私はレゴブロックが大好きで、
いつも友だちとレゴブロックで遊んでいました。
友だちはどんどん高く積み上げて、
立体的なものを作るのが好きで上手でした。
例えば立体的な飛行機のようなものを作り、
それを両手で持ち上げて
『部屋という立体空間を自分は移動して遊ぶ』
のを気に入っていました。
一方の私は、
ブロック用の薄いプレート上にブロックを並べて、
間取り図みたいな形を作り、
その平面的なプレート上で
『プレート上の架空の立体空間を
空想上で移動しながら遊ぶ』
のが好きだったのです。
この二人の様子に対して私の母は、
「〇〇ちゃんは立体的なのが上手ね。
ツマ花はなんでいつも平らなの?
ツマ花も、ただ並べるだけじゃなくて、
縦に積み上げてみたら?」
と言いました。
私はそこで
「『並べるだけ』って下手なんだ。
この遊び方はダメな方法なんだ!」
と初めて他人と比べるという感覚を味わったのです。
そう。たったそれだけ。
立体と平面の遊び方に
優劣や何かがあるなんて
1mmも思っていなかったのに、
『母の独自フィルター』を通したその一瞬で
『並べるだけの遊びは承認には値しないもの』
という母フィルターが発動し、
それを地球ルールの一つ目として
私は学んだのでした。
‖連続的な経験は習慣に変わる
先ほども書きましたが、
子どもは自分ベース『主観』のみで出来ているので、
客観側の親からすると、
「思うように動いてくれない」存在です。
子どもが自分の思うように動かない時、
それって親の独自フィルターをかけているかもしれません。
私はいつも
母親フィルターのかかった言葉を
聞いて過ごした結果、
「母フィルターの正解はどれなんだ?探し』が日常となり、
母の言葉にはいつでも敏感に
反応できるという『能力(スキル)』が
鍛えられていました。
この能力は日々着々と鍛えられ、
いつしか
『人の顔色を伺う』という武器に進化します。
『人の顔色を伺う』という武器を手に、
私は学校に通い始めました。
学校は、
『親』の次に大きな第2の社会。
『社会②』です。
学校では、客観性のバージョン2を学ぶわけですね。
親とは違う社会とはどんなものなのか?
少し楽しみでもありました。
しかし残念なことに、
ここでも自分ベースを丸ごと承認してもらえることは
あまりありませんでした。
いや、母や家族という『社会①』より
さらに客観性のルールが細かいことを、
私は思い知ることになります。
そりゃそうですよね。
より多くの人と共存しなければいけないのだから、
1レベル厳しい客観性を
学ぶことになるのは必須です。
ここで、1レベル厳しい客観性に飲まれることなく
ゲームを楽しめるとするならば、
攻略法はおそらく一つだけです。
親から『社会①』で学んだ客観性が
「自分ルールは死守。
一方で、世の中にはたくさんの客観性があるから
、それを『社会②』で味わおう」
というものであることです。
上記の攻略法を持って『社会②』の学校生活をスタートできたら、
子どもは家庭よりも大きな『学校』に出ても、
自分軸を保ちながら
ゲームを楽しむことができるのではないでしょうか?
ところが私は、
すでに母フィルターという
あまり使えない武器をゲットしてしまっていました。
友だちや学校という『社会②』でも、
相手の『顔色を伺う』がすぐに発動してしまいます。
「客観性が多すぎて分からない。
(そりやそうだ。いろんな親がいる。
社会②は、主観性の無法地帯だぞ!)」
「ここで生き抜かなきゃいけないのか…
じゃあ、どの客観性にも外れないのはどれだ?」
「よし、ザックリと『嫌われない良い子』になろう!」
成績が良ければ、親から怒られない。
相手に迎合していれば嫌われない。
それが地球ルールの王道だ〜!!
と、
『良い子』に向かって
ただひたすらに突き進むのみの
子供時代を送ってしまいました。
当時の私に選択肢はありませんので、
モヤモヤしながらも、
それで人生ゲームを進める以外に
道がなかったのです。
‖ニワトリが先か?卵が先か?
「モヤモヤしない地球ってあるのかな?」
私の母は、母にとっての『理想の子育て』を
してあげたかっただけだったのだと思います。
母には母の『自分の主観』があるからです。
母も同じように地球の入れ物をもらって
赤ん坊として地球に来て、
私と同じように親に客観側を教わり、
『社会②』を体験しました。
そして私が産まれて、
今度は『主観しか持たない赤ん坊』に
『地球の客観側』を教える立場になりました。
母の知っている『客観側』は、
母が今まで教わった客観側オンリーです。
たった一つ握りしめた母フィルターの中で、
より最良の『客観』を母なりに模索した結果、
『自分が思い描く理想の子育て』を実行するのが、
最良の選択のはずだ!と、信じたことでしょう。
それは、悩みに悩み、頑張った母の
私への『愛』に他なりません。
この一連のサイクルを考えた時、私は
「ニワトリが先か、卵が先か?」は
完全にニワトリが先だ!と確信しました。
卵(ヒナ)は、産まれた時、
初めてみるニワトリを『親』だとインプットします。
産まれた時点でどれを親にするか?を
選ぶ権利は持っていません。
なので、
卵(ヒナ)が1番最初に学べるのは、
ニワトリ(親鳥)が知っている客観性だけなのです。
しかし人間の世界では、親って、
「何か違うな」と思ったら、
学ぶ場所を変える権利を持っていますね??
- 自分の子どもを良い学校に預ければ安心
- 自分が後悔した部分で同じ目に合わせなければ安心
- 自分が成功した方法なら、子どもも成功できる
親の知っているルールが、
子どもの自分軸にフィットする可能性は
どちらかといえば低いでしょう。
- 自分が親に手を挙げられたから、自分もこの方法しか知らない。
- 自分は親のために働いたから、自分の子も自分のために働いてくれる
どちらにせよ『連鎖』を断ち切れるとすれば、
- 今、親が断ち切るか?
- 子どもが将来親になった時に、自分の子どもに対して断ち切るか?
どのみち、断ち切れるとすれば、
ニワトリ(親)が先になるでしょう。
‖ニワトリ側になって気がついたこと
私は大人になって、
モヤモヤの原因は何だったのか?を
20年くらい考察してきました。
地球上での人生のゲームの『本質』が
分かるようになった手順を書いておこうと思います。
- 自分の人生史を誕生から今日まで、1年ずつ書き出す。
- 【1】の自分史に、思い出せる範囲でできる限り細かく感情を付け足す。
- 自分軸が捻れたきっかけの出来事を見つける。
- その出来事が起こる前と後で、自分の行動の何が変わっていったか?を思い起こす。
1と2は数日で炙り出せましたが、
3と4の作業は、私は3年くらいかかりました。
案外、最近のことでモヤモヤしてるような
感じがしちゃうのです。
そして、最近の記憶をウロウロと探すのですが、
「これだ!」という確信に辿り着きません。
遡って20歳くらいの頃はどうだろう?
そこでもない。
15歳くらいの頃は?
確かに色々とあったが、ここでもない。
5歳くらいの頃…
あぁ、ここか!!!!
という感じでした。
5歳より前からきっと、
母親フィルターは浴びていたでしょうが、
私が刻んでいる一番古い記憶は5歳でした。
自分軸を捻れさせるスタート地点は、
私がニワトリ側になって
冷静に自分史を分析できるようになったからこそ
分かったことでした。
子どもの頃に
自分のチカラだけで修正をするのは、
不可能に近かったと思います。
やはり、子どもに自分軸をキープしろ!と言うのは
難しすぎます。
変わるなら、ニワトリ側の方が断然早い!!
‖本質とは何か?
今は世界中の人が
「主体性」の重要性を認識し始めています。
その人にしかない個人性を存分に発揮して、
人生を味わい尽くすことが大切だと、
気が付き始めているのです。
地球ルールの本質は、
やり方よりも『在り方』だと、
私は思っています。
「怒られないためにはどうすればいい?」
という『やり方』の前に、
「自分はどうしたいのか?怒っている人を納得させたいのか?」
という『在り方』を見つめる。
「良い成績を取るにはどうすればいい?」
という『やり方』の前に、
「良い成績を本当に取りたいのか?」
という『在り方』を確認する。
どう存在するか?
どういう存在でありたいのか?
自分はどう在る時、自分らしかったんだっけ?
『在り方』そっちが先なんだ。
‖まとめ
親から教わった客観性は、
そのまま子どもに引き継がれやすく、
どこかのタイミングで誰かが気をつけなければ、
家庭環境の連鎖を生みがちです。
だから私は、ニワトリが先だと考えています。
子ども時代の自分軸が
捻れるような習慣が長ければ長いほど、
本当の自分を取り戻すのには
時間がかかります。
私は今38歳で、
なんだかんだと試行錯誤をしているうちに
20年続いてしまいました。
今まで学ばされた客観性を手放して、
自分の主観性を取り戻す作業になるわけですから、
それはそれは大変です。
大変なので、
修正作業を粘り強く続けるニワトリは、
あんまり居ません。
修正作業をしなかったニワトリが、
卵の『在り方』に気がついてあげられる確率は、
残念ながら、そう高くないでしょう。
そして家族は連鎖を繰り返す…
もう、このサイクルを、
私はみんなで手放したいなと考えています。
やり方ではなくて、
この世界でどういう存在でありたかったのか?
地球で私たちみんなが
自分らしく生きるための
『本音』はどれだったのか?
本音を守ろう!
自分の「ぶっちゃけ」を大事にしよう!
とっても長くなりました!
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
ハルカより